後醍醐天皇

呪術に通じた悲劇の王-後醍醐天皇

悲劇の王

後醍醐天皇は正応元年(1288年)に後宇田天皇の第二皇子として誕生したがなかなか天皇に即位することができなかった。兄の後二条天皇が急逝で即位した時にはすでに31歳。当時は鎌倉時代末期で、源氏と北条氏による武家政治の体制が盤石になっていた。

実質的な支配権は天皇家から武家へろ移り、しかも地方では悪党と呼ばれる武士団の動きが活発となって、幕府の基盤そのものが揺らいでいる。後醍醐天皇が天皇親政を取り戻すために討幕の兵を挙げたのはそんな時代だった。

ところが討幕計画は2回にわたって幕府に露見し、後醍醐天皇も壱岐に流されてしまう。そんななかで河内の楠木正成、播磨の赤松則村、上野の新田義貞、下野の足利尊氏ら反幕府勢力の力を結集することでようやく新政権を打ち立てることができた。このとき後醍醐天皇が列島支配に利用しようとした力こそが呪術である。

ところが後醍醐天皇の理想とした天皇がすべての権限を握り、直轄的に日本全国を支配するという理想はかなわず、力を伸ばしてきた武家の力を甘く見積もったため後醍醐天皇の打ち立ては新政権は短命に終わってしまい、後醍醐天皇は吉野の地に移り南北朝時代が始まる。

後醍醐天皇の秘儀

後醍醐天皇はとりわけ密教に強い関心を抱いていた。密教は簡単に言えば「目に見えない教え」である。仏教であれば経典に書かれた教えを見ることで知ることができ、これを「顕教(けんぎょう」という。それに対し、密教は経典には教えが書かれていない。自ら行う修行によって直接宇宙と通じてその奥義を体得するものである。

後醍醐天皇に密教を教え、影響を与えたのが鎌倉幕府に対して呪術をかけて硫黄島に流された「文観」という僧侶である。その文観が築き上げたのが日本史上屈指の邪教として知らている「真言立川流」なのだ。後醍醐天皇はこの真言立川流の呪術の力を用いようとしていたのだ。

決定的な証拠として後醍醐天皇は肖像画において、密教の仏具である金剛杵(こんごしょ)を手にしており、これは密教における呪術のスタイルである。しかし、この呪法は自らの身をも滅ぼす諸刃の剣であり、後醍醐天皇は武家との争いに敗れ、奈良の吉野に逃げのびたものの、京都へ戻ることはかなわなかった。呪術を用いたことにより失った代償はあまりにも大きく悲惨なものだったのかもしれない。



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